Gallery 2 追憶


尾鷲火力発電所建設記録映画をDVDにしたものをいただきました。映画自体をインターネットで公開できれば良かったのですが、私のITの知識では不可能で、所々、映像カットを写真にして残すことにしました。
映画に映し出される所々の単色の画像は、私の脳裏に、くっきり残されているものと同じでした。

あの頃の熱気、豊かさを失ってしまったのは、とても悲しいです。

(第一部 大いなる黎明、第二部輝ける飛翔ーこれらの写真は、公開に際し、中部電力の許可を受けています)

市場と発電所の間には、瀬木山がありました。この山が全て埋立に使われました。科学技術のすごい破壊力です。科学の力で、明るい未来の創造を考えていた時代でした。

尾鷲のような陸の孤島から、電気が都市に運ばれてゆきました。

巨大なタービンの複雑な内部!膨大なエネルギーを産み出すもの。鋼鉄の美しさ。

火力発電所も完成後しばらくは、(私の小学生頃)外国から大きな石油タンカーがやってきました。陸の孤島にいて、唯一、外国との繋がりを意識できました。海の向こう、遠く。

早朝の市場は活気がありました。漁船から水揚げされる大量の魚。鰹節工場、缶詰工場が港にあり。港近く、干物の並ぶ姿は日常でした。

造船所もありました。

林業も盛んでした。材木を船に積み込んでいました。製材所も身近になくなり、港で材木を積み出している姿は全くありません。

たくさんの船が港に繋がれていました。小学2年のとき、ここで、写生をして船を描いたことを覚えています。今は船もわずかです。

古い日本家屋がひしめき合っていました。玄関はあいたままで、長い土間を通ってゆくと奥は台所でかまどがありました。よく、祖母の言付けで、お中元、お歳暮を届けに行った思い出があります。

興奮のヤーヤー祭り。各町の男の人たちが、身体をぶつけ合って、爆発します。海の男、山の男は、凄かった。子供の私は、家を守るヤグラによじ登って、みていました。怖いけれど、興奮してみていました。あの熱気は覚えています。

大きな家は石積みの塀で囲まれ、中には大きな蔵がありました。林業で栄えた家です。
番頭さんもまだいました。子供にとって、街はちょど良い大きさでした。

子供達も毎日練習し、お化粧をしてもらって尾鷲節を踊ります。ハッピの背にはそれぞれの町のロゴがついていました。私のは北町の扇子に日の丸。母が、2種類のハッピを大切に保存しておいてくれました。懐かしい思い出です。

熊野古道センターができる前だったでしょうか。尾鷲に帰ると、松本に向う海岸線もコンクリートで固められてしまっているのをみました。センターまでの新しい道を作るためだったのでしょうか、わかりません。幼少時は、確か ”うに”などもすぐ足元の海岸で、みた記憶があります。”うに”といば、帰京のたびに食べにゆくお寿司さんで、この数年、紀州うにが食べれなくなりました。いつも一貫ずつ、北海道産と地元産を食べるのが楽しみでした。ふくよかな北海道産に対して素朴な海の味の地元産だったのに。。。。生息域が減少していたのに、温暖化で、絶滅したのでしょうか。